acter.dancer.

今村達紀

2020.06. 守屋祐樹 インタビュー

2020.06.20

今村:守屋さんは作品としての写真と記録としての写真と両方撮っているので、その違いを聞けたらと思っているんです。もしくは違わないってことを聞けたらなと思うんですけど。

守屋:そうですね、仕事と制作に関する写真の考え方って基本的にはあまり分けないようにしています。分けてしまうと人格的に2つに分けられちゃって切り替えるのがしんどくなっていく。例えば仕事で僕がこういう写真を撮っている人だからというイメージでそういう風に要求されて、自分の制作は全然違うみたいなになっていくのがすごく嫌だなーって、要求に応えるのが仕事って言われたらそれはそれで使い捨てられているような感じがする。そうじゃない方法を選ぶんだったらちゃんと自分の選択を丁寧にプレゼンしていかないといけないのかなあと、それは仕事でも、制作でも。

ビジュアル的にはちょっと違うかもしれないけど、繋がっている関係を設けておいて、その中でできることや考えていけることを作っていけるのかな、そうすれば見てくれている人は見てくれているのでちゃんとリアクションしてくれる。そういうことをある意味信じてやってきていたり、それを狙ってやっていたりするので、いろんな仕事をいただけるようになったりとか、制作の面でもある程度評価を頂いてると思っています。

例えばパフォーマンスの撮影でも自分がどういう風に記録をしていけば、彼、彼女らが見てこなかったであろう、あるいは見ているであろう景色っていうものをちゃんと記録できるのか。

作品と写真の仕事っていうを切り分けてる人は多い印象があるんですけど、僕はフリースタイルに分け隔てなくいこうと思っていて。いろんな表現や撮影の方法をある程度トレースしておいて、その中から自分の引き出しとしてどう使うか瞬間瞬間に反応しながら作っていく。この時はこういう考えの方が妥当かなとか。

あるパフォーマンスの撮影なんですけど、反省することも多いかもしれないこの回は。とか思いながら可能な限りちゃんと応答していこうとか、これはパフォーマンスというよりかは作品制作のプロセスをちゃんと見せていくっていうのをやっていくほうがよくできるのではないだろうか、など意識的に記録しています。

作家が見えていない作品と設置する場所や環境、時間に関しての諸現象っていうのは僕らの接触によってたち起こると思うんですよ。その現象そのものを僕はピックアップしていったほうがいいのかなとか、そういうものを見つけやすいのが僕(の立ち位置)だったりするんだろうなとか。相手と僕の関係によって何が結べているのかっていうのを精査しながらやっていかないといけないなとか。

この場合、ある作家と僕の仕事っていう関係のなかでのやり方であって、それが制作と仕事の中間地点だと思うんですよ。そうじゃなくって片方にウェイトがかかってるような、、、。例えばKEXとかの仕事の時を振り返ってみると、僕が初めてKEXで仕事したのがルイスガレーの仕事なんですよ。

今村:あーあの

守屋:メンタルアクティビティー。もう1つやってた、確かマリエリスムだっけな。あの時が初めてで、撮るにあたってパフォーマンスがどうゆう風に記録されているのかとか、どんな写真があるのかリサーチをかけていってたんですよ。見ていくと、一定のパターンというかベタなカットがあるじゃないですか。これはどうしたものかとちょっと思っていて。

今村:というのは

守屋:これは歌舞伎でいう見栄切りをそのまま撮るみたいな感じじゃないかって。歌舞伎とパフォーマンスアートって違うんじゃないの?って。写真にした時にいろんな幅を持たせたいと思っていて。確かに見栄切りも拾う部分ではあるけれども、それだけじゃないんじゃないかなと、僕はその時初めて思ったんですよ。他の可能性が全部ついえていくというか。

フィルムの頃はカット数の制限があったと思うんですけど、今はデジタルなのでほぼ無制限なんです。撮れるだけ撮りまくるみたいな。連写も簡単にできちゃうし。デジカメだしカット数気にしないのであれば、ベタなカットは撮るけれども、そうじゃない肉体の機微みたいなものも撮っていってある種のパフォーマンスの中で起こる彫刻的、絵画的シーンっていうものを見つけ出したいとか、その中で起きる状況の変化みたいなもの観察できるようなカットっていうものがあったらいいなと思ってアプローチしています。それは総合芸術の面白さだと思うんです。観客は好きに観て好きなシーンで感動できるはずなのに、何故か同じシーンであれ良かったよねって言い合うのでなくて、実はあの体のひねりとかすごい美しかったはずなんだけどな、とかそういうものをちゃんとピックアップしようっていう。

なので全体的に見ながらっていうよりも、近いけどちょっと引いているような中途半端な距離感。そこからよってみたりとか思い切って引いてみたりとかする。その身体的な繰り返しを自分は持っていることがパフォーマンスを観察する態度につながっていくのかなって思ったんです。ルイスガレーの時、そういうアプローチで中途半端なカットを撮りまくって急によったりとかしていました。演劇や劇的なものの撮影には有効にならないんですど。「このフレーミングでちゃんと撮ってくれ」っていう要求が「正面からこう撮ってくれ」っていうプレッシャーがくるのもあるので、当然撮っています。その中でも遊びっていうか余地は必要で、その幅を設けることを課題として目指しています。

昔、僕は大学生の頃オーケストラの撮影の仕事をしてたんですよ。本当に簡単なバイトみたいな感じで。それは本当に引いてワンカットづつ人がどういう感じで弾いているのかをちゃんと1人をクローズアップするようなカットを要求されてそのまま仕事やってて、それが面白かったんですけど、写真的には退屈だよなと。ある意味使い古された定番のカットみたいなのをみんな欲しがってはいるけれどもうちょっと違うカットは可能なのかなとずっと考えたいて、実現はできなかったんですけど。院生になっって写真の考え方も変わってKEXをやるときにどうするかっていうことを悩み観察的に撮る行為というか姿勢でぶつかって行こうと決めて撮影したら良い感触を掴めた気がしています。

それは会場記録も同じ感覚でやっているんです。パフォーマンスだけじゃなく、展覧会の会場記録とかも。広角でとにかく広く撮って、一目で全部が見えるていうカットが理想とされてる。でも、それって写ってる作品がめちゃくちゃ小さくなってしまうんですよ。それで、見た目が美しいとか、作品をちゃんと写しているっていうのはすごく言い訳だよなと思っていました。だって全部小さくなっているんですよ。見えないじゃん!ってツッコミしたくなるんです。写ってるのに見えないって意味ないと思って、じゃあ、寄ることの理由が生まれました。断片をいっぱい集めて、1つの総体的なイメージにしていったほうが面白いでしょ、みたいな。それがデジタル写真の面白さだと思うんですよ。フラグメントをいっぱい作っておいて、それを連続して経験して「あれなんだっけこの写真みたとこある」をずーっと繰り返す。ある展覧会の会場空間を自分が物理的には経験できなかったけど、視覚的に経験できるっていうのは、クローズアップされた写真や中途半端な画角によって経験できると思っています。それが視覚として再生されていった時に生まれる心地良さだったり、「あ、こういう現象があったんだ」とか、「私ときどきこう横目で見てるシーンがあった」っていうときに、同じ感覚を共有できる場が写真だったりする。僕はそういうことができたらいいなと。もっと僕らが経験することはいっぱいあるだろうと思っていたことを、パフォーマンスにもいかせるかなと思って、それを転用したのがさっき言ってた話なんですよ。

今村:なるほど

守屋:それは、仕事に対する写真の考え方でもあり、制作でもそういう考え方。全部は見えてないけどなんか見えてる。外から見てみるとそういう写真なんだろうなと思ってるんですよ。まじまじと何かが見てわかるっていうよりも、そもそも写真は断片なんだっていう。

会場を動き回って1つの感じ方を経験できるっていうのを会場記録として撮っていて。経験できるっていうことはやっぱり写真を撮る上でもすごいベースになっていますね。

見る人によっては、わかるけどわかんない感じがずーっと続くっていうか、それが続くのはカタルシスがないので、、、。腑に落ちる感じがないからすごく不安になるというか、この人何言ってるのかわからないみたいな感じになる。具体性に欠ける。例えば写真だと指をさすとか「これ!」みたいな写真を撮ったりすればわかるじゃないですか。コーヒーにクリームが入ってるのと入ってないのがある。指さし確認みたいな理解。けど、もうちょっと机の上を広く撮ったときに指すものがはっきりしなくなっちゃう。その状態をどう維持するか。

今村:なるほど。フレームに入れないことによってフレームの外側が見てくることもあるのかなと今聴いてて思いました。

守屋:現実の断片っていうものを考えてみます。見る人はピースみたいなものがでてきたときに何と噛み合うのかを想像しているんですよ。人ってそのピースを3つ4つと重ねて見てときに、「あれ?二、三個前の何かとちょっと似た風景だぞ?」みたいな感じでピースをつなげていってピースがマッピングされていく。そういうことが写真にはできるんじゃないかな。それは多分記録っていう仕事に関してもそうだと思うんですよ。

例えばアーカイブの仕事もしているんですけど、亡くなった人の遺品や残された作品の記録をしていて、確かに遺品みたいなものを撮っているんですけど、何か断片みたいなものにしか感じられない。作品未満のドローイングを記録していくと、本当の作品の記録をすることによってやっとドローイングの完成っていうか意味がちゃんとつながってくることもありました。アーカイブって断片なんだってことがよくわかる。ドローイングと本当の作品の間にあるもの。それは描いている人の身体的なプロセスのことを想像する。それは答えにはならないと思うんですけど想像すること自体は間違いじゃないんですよ。それによって、見ることは叶わなかったけど、言葉が発することとかが何かを触発してくれるはずなんですよ。

今村:ダンスをアーカイブするときに表面的にこういう形でこういう風に動いているんですっていうことのほかに、それをもう一度読み込むの人という存在も残しておかないといけないのかな。身体的プロセスを追う人を。記録を残したときにそれを読み込む媒体が必要なのかなって。

守屋:僕は守屋友樹と和田ながらっていうパフォーマンスユニットで、演出家の和田ながらさんと創作しているんですけど、そこで僕は常に記録をしていて、初めて作った作品が石溶けちゃって~(2016年『石|溶けちゃってテレポート、固まってディレイ』)っていうすごい長いタイトルなんですけど、それのフィールドワークの記録も撮ってたりもする。

守屋友樹と和田ながらのユニットの特徴としていえば、フィールドワークをしてクリエーションもしていく。そして、パフォーマンスすることが終わりじゃなくて、その間にできた記録を全部使って、本を作るっていうことまでやってるんですよ。そのパフォーマンス前後の時間も僕らにとって必要な制作の時間であり、写真によって補完されることもできる。なんなら演劇はすでに始まってるとも思えるように。そういったことを本が作品として可能にしてるんじゃないのかなって。だからパフォーマンス以外の場面も記録するようになっていますね

写真としては美しいとかそういうものはないと思うんですけど、稽古中の写真もただの稽古中の写真なので価値的な要素はほとんどないかもしれないけど、それをやっておくことで、これが本になったときに面白いんじゃないのかな。とか、公演中に辿れなかった身体性がこの写真あるいは本の中で再生することができるんじゃないか。パフォーマンスを二度やるみたいな感じで本を作ってるんですよ。それはブラックボックスっていうある種の舞台空間の中から飛び出るために、本という媒体を用いてパフォーマンスを再現する。

今村:稽古の撮影ってどのぐらい稽古が進んでから始めるんですか?

守屋:毎回カメラ持って行って、こんな感じで撮ったらいいのかなとか、この作品ってどういうことなのかなとかをもう一回見直すために写真を撮っていたりして。自分の眼差しを微調整していくみたいな感じです。じゃあ実際のパフォーマンス記録の時は何ができるのかとか。僕ただの記録係になっちゃうんで、それを避けるためにどうしたらいいのかなとか。

立ち位置をそれぞれ振り分けてやっていて、僕はパフォーマンスのコンセプトを作ったり、タイトル書いて決めたり、記録をしたり、本を作ったりするようになりました。コンセプト決めてプラン出して和田さんオッケー出たらやるみたいな感じで。

で、フィールドワークとかは一昨年亀山トリエンナーレでやってたときのものがあります。稽古中の写真も混じってはいるんですけど。

このときは坂上田村麻呂が鬼を退治するっていう物語が亀山やその周辺にあったのでそれを題材に作品を作っていました。その土地にまつわる場所の風景を記録していったりしていました。本当に全然関係ないような写真を普通に撮りながらやってますね。

今村:その話をきいてからこの森の写真を連続でみると坂上田村麻呂がそこを通ったんだろうなと勝手に想像してしまう。

守屋 : この写真は、確か鬼の住む島みたいなところがあったのでそこまで行きました。フィールドワークは僕と和田さんの身体的な経験を調整していくためにやっているに等しくって、そこで思いついたこととかはそんなに多くはないと思うんですよ。そのかわりこの道中で作品の話とかプライベートの話とかして、なにかこう2人で問題意識だったりとかを擦り合わせていって脚本化されていく。そのときの会話ももしかしたら組み込まれているのかな。僕がよろけてたこととかで、この鬼のいる場所は揺らぎがあってとかしてたかもしれない。撮った写真は和田さんにも送るので、それを見て何か書いたりするんだろうなって。本当に大量なんで大変なんですけど。

さっきも言ってたように、最終的には本になる。その中にも記録が少なからずあって、眼差しだったりとか、それをどう拾って作品化していったのか追うことも可能なんじゃないのっていうスタンスでやっている。それをやるためには本という場所が舞台、劇場として機能しなければならないかなと思っています。ページをめくることが一つの時間であったり空間だったりとかするわけで、パフォーマンスでは見れなかった経験がこの本の中では再生できる。ちなみにこのページは亀山の時のテキストです。

今村:今この記録の写真と本を比較して見せてもらったから思うのかもしれないけど、本にする時ってもう一度断片化するみたいな感じがします。

守屋:本にするときにさらに精査されていくので。そのとりこぼされた写真ってなんなんだろうとかはいつも思っちゃうんですよね。

今村:アーカイブで記録写真っていう場合と、プロモーションとしての記録写真で毛色がちがうと思っていて、いいところを撮っているものがプロモーションに使われるから、見えなくなる部分っていうのをどう出していくのか考えていいて、全部見えることっていいなと思うんですけど、膨大になることでアクセスが悪くなる可能性があって。

誰もが死んでいくじゃないですか、そうすると膨大な量の記録が出てくる。その膨大な記録ってどれぐらい膨大であっていいのだろう?ということを考えていて、それをアーカイブとして残すときに取捨選択を行うかどうかが人によって考えが違うと思う。残すべきものと残すべきでないものをわけていくことになると、誰かの視点に切り取られていく気がしていて。そこをどうすればいいのかと思っている。

そもそものデータベースとしてどうあったほうがいいのか。どの程度のデータを残すのが適切であるのか探りたい。

守屋:記録の扱い方だったり考え方っていうのは、一つじゃないからなあ。その中で、依頼されればディレクションすることも可能だと思うんですよ。完全に舞台写真です!みたいなことを必要としながらもうちょっと幅を持たせたいんですと言われたらどうするかっていうのも計画たてていかないといけないのかなって。

例えば写真見慣れてなくってとか、舞台もそんなに詳しくない人たちだったりとか、さっきから言っているベタな写真が欲しいみたいなのだったら僕がやってるような考え方はフィットしにくいかなとは思うんですけど。あと、見せる場がどこなのかとかは聞いておきたいですね。映像や写真だったらパソコンや携帯画面上だったりとかするわけで。あるいは紙っていうメディアだったりとか。

今村:普通だとこれぐらいのことを記録するんだけどそれより広い記録をしておこうかなと思っていて。その媒体は何がいいのかも考えたくて。記述なのか写真なのか映像なのか。

守屋:アーカイブしてる人からいえば膨大であればあるほど大事ではあると思うんですよ。

そこからどういう研究していくのかは、後から見る彼らが、作り出していくことで、全体像はあらかた決められているとは思うんですよ。そこから見えなかったものとかをどう抽出するかっていうのはアーカイブだったり研究者がやることであって、その中でもテキストは結構大事にされますね。覚書でも手紙であっても。仕事に関するテキストであっても、あと写真資料も結構重用されてる印象はありました。僕が関わった仕事の中ではですが、制作に関係ない自分の子供を撮ってる写真だったりとか関係者がいるとかそういう写真があるだけでも、本人の関係図や周辺が見えるようなものが結構大事にさてているように思いました僕は。作家だったら作ったものは確実に残ってるわけじゃないですか。それ以外で写真であったりテキストであったり、中心にある作家像とか作品に対して周辺が埋め尽くしてくれるように、テキストであったりビデオであったり、写真であったりとかそれが中心に向かってまとまっていくような感じや周辺同士がリンクしながら本人像を結んでいくようなこととか可能なんだろうなとかは見てて思いますね。

僕もちょっとずつテキストを大事にしてたりはしますね。あんまり残さないようにはしてるんですけど、作品コンセプトに足らないところの未満のテキストもちょっと残しといたりしながら本テキストのデータを残したりとか。何が気になってるのかなとかを洗い出したりとか、怪我した日記を書くとか

今村:怪我した日記?

守屋:指切って、三針縫った時の一週間を記録するみたいな。何日目、血が止まったみたいなこととか書いて残しておく。雨の日、傷がじゅくじゅくと痛いとか。六月になるとジクジクしてきて痛いとか書いてたりします。

今村:それって長期的に記録してるんですか?

守屋:長期的にしてるものもあればしていないものもあったりとか。こう本当に長く続けようってい意思はあんまりないので、そういう傷とか痛みに関する内容は。ただ本当にショッキングだったとか記録したほうが面白いなと思って。痛みとか、なにかビジュアル的に印象に残っていることを思い出しながら、人が指切った姿をみたときにどれだけ自分が共感できるのかなとかなにかこう内面化できることをリンク時に一つの作品化することだったりとか、普通に人として付き合う中でのどう言葉をかけていいんだろうというときに想像が働く気がしています。

楽しいとか嬉しいとかには共感しなくて、痛いとか苦しいは共感できることいっぱいあると思ってて。そっちの方を残すようにしています。

今村:面白いな。僕も嬉しいとか楽しいとかよかったみたいなものが共感しづらいことがあって、この公演のこの回が一番よかったみたいなことをなんとなくはわかるけど、奇跡みたいな回だったみたいなことが理解できないことがままあって、みんなそうだったんだろうけど、こちらはただ冷静な回だったんですけどみたいな。

守屋:痛みに関していうと、うまくいかなかった記録に関するテキスト書こうかなと思って、苦しみとかに関して。なんであんなに困ったんだろうとか。これ残しとけばまた別の機会で生かせるんじゃないかなみたいな。すごい反省が多かったと思いながら。物理的な失敗とかはあんまりなかったと思ってるんだけど、感情的になにかこう負の面を感じるって思ってたんですよその時自分の中で、だめだなって。その負の面を文字に起こして何なのかをちゃんと冷静に判断するために残そうって。

メモを残すとかは、ある意味語り言葉で残されたビデオだったりとか、インタビューの記録以外の個人が書き出しているテキストになるので、それは重要視されてもおかしくないんじゃないかな。最重要視されるに近いもの。それによって、例えば写真を撮っているとか、ある種のこうスクリプト化されているものなので、それを実行するのが身体であったりとか、ただスクリプト化するだけの行為だったりとか、プログラミングの部分だと思うんですよ。基礎的な。メモっていうのは。

今村:そうですね。

守屋:それによって世界が拡張されていって、外との接触によってまたテキストっていうものが生まれてくる。または言葉が生まれてくる。僕よく学生にいってるんですけど、言葉を得ると世界が広がるっていうのをいってて。言葉を増やして世界を作っていくんだよって。世界がそもそもあるんじゃないんだ。私と世界が関わるってことで言葉が生まれてくる。と言っていて、僕はそう思って言葉を大事にしている。多くを語ることはできないけれども、言葉を大事にすることはかなり必要だと思う。本当に視界が広がるんですよね言葉を得ると。あるいは見たものに対してリアクションが生まれたときに言葉が生まれたらそれもまた世界がひとつ奥深くなってくるというか深く潜れる。例えばですけど、僕フィールドワークで北海道に2018年に行ってて、フィルムで撮ってたんですけど、その中でこういった写真とか、あんまり何も気にせずトラックのこととかを見てとってただけなんですけど、よく見たら自然に侵食されてたりするので、中にも生えてるんですよこれ。(トラックの中に植物が生えている写真)

今村:あ、本当だ。

守屋:文化的な存在が、こう自然に侵犯されていくっていうのが、ここで起きてるんだとか、あるいはタイヤの後の雪とかを車が雪の面を潰して造形されていくっていうのを当たり前だと思ってたんですけど、それも相互的な関係がこの二つの写真には現れているんだろうなと思っていて。車が走って走って走った先の泥の状態とか、それって文化と自然という関係がここに立ち現れているんだっていうのが、すごくわかりやすく出ていたんで、これは本当におもろいなって思っているんですよね。こういう写真を撮っていこうかなとか。そういう写真をフォーカスした展覧会をやろうかなとか思っていて自然と文化っていうものの関係が何か立ち現れてくるものをピックアップするっていうのは、自然だけをとっているわけではなかったけどあんまり考えてなくて、そこに着眼点だったりとか言葉を見つけたときに、あ、これもそうなんじゃないのかなとか、言葉を得た後の世界への眼差しは拡張されてるんだなと。いつも学生に行っている言葉が自分にかえってくるっていうか。改めてやっぱ大事だよねっていう。このことって自分も積み重ねて行ってようやくわかってることだし、学生も積み重ねていかないと、本当に眼差しとしては広がらないというか狭い世界でずーっと過ごしていかないといけないのはつらいなと思っています。自由になる方法っていうことを彼彼女らに教えてあげたいっていつも思ってはいるんですけど。だからメモって本当に大事なんですよね。

今村:僕メモが膨大になっちゃって、

守屋:それ精査して行ったほうがいいですよ。

今村:精査はしてないんですけど、膨大になるからいつの何か何に対するメモかみたいなことを書いて、ノートに書き写す作業をしている。

守屋:それもう一つの文章にしたほうが早くないですか?

今村:早いかもしれないけれど、それを完全な文章にしちゃうとその時の手触りはなくなってしまうから、なるべくメモのままの状態で清書するみたいな感じで、あまりにも意味がわからなくなっているやつだけ、プラスで言葉をメモしてといった感じですね。そうするとどんどん積み重なって行っちゃうけど。

守屋:今村さんめっちゃマメですよね。僕は本当に長期滞在しているなかでの日記を書くくらいで、日常生活では痛み以外ほとんど書かないですね。

今村:日常生活でメモしてることって、作品のこととかが多くて、タスクのメモは捨てて行っているので、

守屋:本にメモしたりしますか?ノートに書いちゃう?

今村:ノートに書いちゃう。本に書いたほうがいいこともあるとは思うけど。あと、誰かが本に書いたメモは面白いなと思う。古本で買うとたまにあるじゃないですか?この人ここにすごい思い入れあったんだろうけど全然わかんないとか、こんな簡単な漢字だけふりがなかいてあるけど、ほかは全然書いていないとか、人によって全然違うなあって思う。

本には直接書きます?

守屋:書いたりしちゃってますね。線ひいちゃったりとかして、ぼろぼろにしていくんですけど、まとめるべき本の場合はまとめたりしながら、友達にこの本の紹介っていうのでひたすら喋る会を作る。紙は必要な時に書くくらいかな。あんまりなんでもかんでも書いていくと膨大になっちゃう。本当に大事なものって長く思っていく思いの強さだと思うからそれだけを残せばいいかなと思っていて。今は(書くことは)自粛してます。とか、僕は携帯で撮っていくことをしている。

今村:なるほど

守屋:なんでもない動画とかも撮ってみたりはするんですよ。そしたら結構面白かったりとか、音声的にはすごいダメダメだと思うんですけど、なにか出会いみたいなところの動画を勝手にとってみたりしてましたね。

で、北海道の話に戻すと、ユーラップ川って北海道の長万部近くにある八雲町っていう町があって、そこに大きな川が流れているんですけど、上流にいってみたんですけど、と言っても車で3~40分くらいの場所でした。ここ面白いなと思って、なんとなく降りた橋下でシャケが食われてたんですよ。匂いも違うし雰囲気も違って、もしかしたらヒグマいるかも。その時ゾッとしちゃったんですけど、もうちょっとだけ観察して見てそれでなんにもなかったら、ちょっと記録しようと思って、で、そこで3~40分くらい滞在してみて、で帰ろうかなと思ってた時におじさんが現れたんですよ。なにしてるんだい?みたいな。撮影かい?みたいな。ワシでも撮ってるのか?みたいなこと言われて、えっ、なんのこと?と思いながら話ししてたら、実はその人、八雲町の町長さんで、こんな山の中でただ一人ぽつんっているのにおじさんそこからやってくるっていう意味わかんない状況のなか、これ面白いなって思っちゃったんですよね。で、そのやりとりを断片でもいいから残そうと思って、思わず動画を撮っちゃいました。ちょっと音声悪いからテキストにしてるんですけど、

映像としては本当にダメな部類だとは思います。その時は本当に何か失敗したかなと思って家でだらだら何回もこれを見直してた時に、やっぱり面白いかもとなってたかだか1分もない映像なんですけど、ちょっとこれに言葉当ててみようみたいな。ちゃんと音声聞き取り出してテロップ入れてとかしていくと何か断片ながら面白い映像になってるんじゃないのかなとか思い直しました。あの時の感じっていうものをなんとなく思い出しながら、あるいは次にどう生かせるのかっていうのを考えるためのメモみたいなものになってます。こういうメモが多くなるとしんどくなるので、消したりもしちゃいますね。本当に面白いなって思うものだけは残す。そっからメモにしていくこともあるとは思うんですけど。これの場合はメモにできない面白さがあるので、映像だけにしてるんですけどね。

メモは結構面白い気がします。結局はメモっていう部分かもしれないですけど。あるいは携帯の写真であったりとか、

和田さんとの作品制作のフィールドワークの時にたまに録音してたりします。それは一切活用できないものだったりするんですけど。こんな話してたんだとか後で思い直したりとか。面白いなと思っています。メモも写真も結局は断片なんだなあって。あとはメモだったり写真に対する情報としてのディテールというものはどれくらいあるのか。密度的な問題だったりとか。色々あるとは思うんですけど。ディテールっていうものはどのように担保されているのか。それを見返したときにどう感情的に揺さぶられているのか。それによって優先順位が変わると思うんですよ。読み返してみてもなんとも思わなかったメモってやっぱり捨てちゃうんですよね。

今村:一時期昔のツイートをどんどん消していこうとしていて、どうせ読まないし、ていうのをやってると、同じことばっかりいってるなと思って、何年かに一回この言葉絶対呟くみたいな。結局同じこと考えてんだよなって。メモっておくといいな。人が大切に思ってることはかわらなかったりするけど、一旦忘れてたりするので。

守屋:そうですね。メモ面白いですね。最近ツイッターもメモ化してるなとかはあるんですよ。ただもう少し遊び道具的な考え方が強いですけど。「今日も1日誰にも会わなかった」っていうツイートをよくやってるんですけど。

ああいうことを自粛期間中に呟くのが面白いと思うんですよ。誰かが思ってたことを呟き始める。この場合、本当に誰にもあってない日にだけ呟いていて、自粛期間中というか緊急事態宣言期間中だけの限定発言なんですけど。

今村:僕も守屋さんのツイートを見て同じことを呟いてみようかなと思ってたんですけど、誰にも会わない日がなくって、結局仕事行っちゃってるし会っちゃってるしな。

守屋:ツイッターで誰かとつながれることもあるだろうなと思っているので、あのタイミングでできるチャンンスみたいなのは確かにあったと思っています。ツイッターの中だけど、ラジオやってるみたいな気分でやってましたね。たった一言呟くだけなんですけど。

今村:普段フォローしているタイムラインの中って大変なんだっていうことが積み重なっていってる中で。

普段から外に出ないコミュニティーの人たちの話を追っていくとタイムラインが普段と何も変わらない。ああ、これ全然違うんだと。

守屋:そうですよね。実生活上変化は、確かに人が減ってしまったっていう、緊急事態宣言期間中の話ですけど、そもそも人と関わらない仕事をしているせいかあんまりかわらないっていう。確かにありますね。ただツイッターの中はもっと騒々しかったというのはある。

今村:緊急事態宣言がでて、人とあまり会えないみたいな状況になったときに考えることは普段考えていること問題点だと思っていることがより大きくなるだけな気がしていて。普段からこんなこと考えていたんだなって思いました。考える時間が長くなった。ライブ配信ってなんなんやろなとか。

守屋:オンライン化ってどういうことなんだろうとか。すげえおっさんくさい考え方だよなと思っちゃったりした。けど、オンライン化したほうがいいこともあるし、オンライン化できないこともいっぱいある。

zoomを使ってパフォーマンスとかもたくさんあるし面白いんだと思うんですけど、もうちょっと別な面をフォーカスしたいな。僕の話になってしまうんですけど、京都市緊急奨励金の話のリサーチの目的は、隔たりに関してどう寄り添っていくかっていう内容で考えていて、人に会いにいくんですけど、用事があってある人の家に訪ねていってみるけども、その敷居をまたぐことはできない。そのことはどういうことなんだろうとか、またげなかったあの時の気持ちってなんだったんだろう。とか。その壁の分厚さだったりとか、そのことによって作品や展覧会への関わり方が変わってくるんじゃないかなと思っていて、オンライン化によってコンタクトできなかったことに接触可能にしてくれたけど、同時に隔たりっていうものをポジティブにとらえられることを忘れてしまうんじゃないかと思っています。それをいかに面白かったり大事なことだったりするんじゃないのかな。別にオンライン化のアンチテーゼっていうつもりはないんですけどこういう道もあると思うんですよねっていう一つの提案として隔たりっていうもをもうちょっと考えてもいいのかな。気まずさもあるとは思うんですけど。感情の面じゃないんですよね。隔たりって多分。

今村:オンライン飲み会ってあるじゃないですか。

守屋:はい。やりました?

今村:やらなかったんですけど、ちょっとゆるいミーティングみたいなので飲んでる人はいたかもしれないくらい。あれは、飲み会とは別もんだなと思って。やりました?

守屋:ズーム飲み会はしたことないんですけど、ズームで授業はやってたりとか、ズームの授業やるための下準備で、いろんな機能あるじゃないですか。あの機能を覚えるために東京の友達と3人でズームをやって3時間くらいかけて色々な機能を覚えたりはしたくらいですね。授業はラジオやってる気分です。画面共有して、見せながら一つ一つ紐解いてしゃべっていく。途中休憩しながら、何かあったらお声がけくださいみたいな。でもみんな反応で手を叩くだけみたいな。何々についてをもっと話して欲しいの?はいそういうことです。みたいなメッセージが送られてくるみたいな。ラジオパーソナリティーやりながら授業するみたいなもなので、飲み会はやったことないんですよね。ただその東京の友達とやってみたときに、顔の目が合わないとか、そういう身体的なズレみたいな物理的なズレみたいなものは非常に強く感じてあと空気感が伝わらないっていうあるじゃいないですか。一つの空間にいないから、波長が合いづらいとか。そういうノリみたいな共有はし辛いと思いましたね。

今村:あるお笑い芸人がオンラインだと突っ込み辛いっていってて、笑いにしづらい。タイム感が合わないから。どのタイミングでどこに突っ込めばいいかわからない。間が取りづらいせいで、だいたい滑る。それはすごくわかる。一緒にいるときにその空気を感じて喋ることはできるけど、いない場合は感じられないよなって。

守屋:なんかメインスポットに対してあとは無になるみたいな感じじゃないですか。

今村:人数が3人くらいまでだったらいいのかもしれないけど、6人くらいでミーティングみたいなことをしてて誰を見ていいかわからない。何も見てないなっていうのが多分バレてるんじゃないかみたいな。

守屋:いやーどうなんですかね全員まあ平均化されて並べられてるから、みんな似たような顔してるんだと思うんですよ。どこ見てるかわかんないし。

今村:なんかすごく無防備な顔してるなっていう。

授業でやるときにはアバターを使いますていう人もいて、というのは顔があまりにも無防備になるから、そこを回避したいみたい

守屋:僕も写真だけにして、見えないようにしてますね。1対30とかでやると、しかも全員画像にしてくれてるんで、本当にラジオみたいになるんです。

今村:そうなってくると、半期教えて、実際にあのとき教えてもらった〇〇ですって言ってきても誰かわからない。

守屋:名前しか覚えてないから、ああ!君か!ようやく会えましたね。はじめまして。になるんでしょうね。

あったことがある人同士は面白いとは思うんですけど、初めて同士が常にオンラインだけであってオンラインで終わるみたいなのって、実際物理的にあったときにどういう感情が起こるんだろうって。結構ワクワクはしてるんですよね。君だったか!みたいな。

別にSFじゃないと思うんですけど、SFみたいな気分になりますよね。空間がジャンプするっていうか。

今村:その授業って生徒側からの声を聞くことはないんですか?

守屋:質疑応答でありますね。実習授業やってるんで、こういう状態なんですけどどうしたらいいですか?っていって。僕はもうトラブル対応してるみたいな感じで話をしていたりとかしますね。顔を実際に見るっていうことはほとんどなかったんです。僕も学生もみんなプライベートを持っていますし、オープンにしたかったらしてもいいけど、しなくていいと言っていました。それによって、弊害かもしれないんですけどプロセスの共有が全然できないんです。どういう作業してるのか全然わかんなくて、結果だけ見えるんですよ。例えば撮った写真だとか。結果を見せてもらったときにこれは微妙な写真ですねとか話をしてじゃあ実際どういう理由で微妙なのかっていうのを口頭で説明していました。学生とトラブルシューティングを洗い出して、改善して、じゃあこれでやってみましょう。失敗した後に成功させるというワンステップを踏めるのが、オンラインにとっては面白いと思っています。反対にリアルな実習授業は学生ができないことを簡単に補助してしまうと、本当に身体的に理解が乏しくなってしまうんですよ。なんで先生ああいうことやったんだろう?っていうことも気にせず、わー綺麗な写真が撮れた!みたいになってて、わーいい写真、綺麗な写真撮れた!やったー!終わり、みたいな。あの時なんで私は出来なかったのだろう?っていう理由を見つけられないんです。リアルな実習って。時間がなくて考える密度がなくなってしまうので。本当になんとなく成功体験、うわずみを成功を感じ取って、終わる。実際に一人でやってみたときにいっぱい失敗する。許される限りいっぱい失敗しましょうとしか言えないんですよね。